昭和51年02月27日 朝の御理解
御神訓 一、「打ち向かう者には負けて 時節に任せよ。」
負けると言う事は誰でも好きではありません。負けるよりやっぱり勝ったが良い。けれども、負けるは勝ちという事もあります。負けるは勝ち。教祖様が教えておられる打ち向かうものには負けて時節にまかせると言う事は、絶対勝ちうるんだと言う事だと思いますね。打ち向かうものには負けて時節に任せて。負けたかのように見えておるだけの事であって、実際は負けるが勝ちである。
負けておるかのように見えるだけである。自分の心の中には神様を知らない、神様を信じる事の出来ない人の上に一つの哀れを感じる。信心を頂いておる者の有り難さを感じる。そして有り難い頂き方が出来ると言うことは必ず、おかげになると言う確信。だから打ち向かうものには負けて時節に任せると言う事はね、はがいかろうけれどもまあ負けておきなさいと、いわゆる泣き寝入り的なと申しましょうかね。
信心しておるけんこらえておるというのでは、これは負けてと言う事にはならん。負けてと言う事はいわゆる神様を信じる所からね必ず勝てる。確信があっての私は負けるでなからなければ負けるが勝つと言う事にもならないし、又是が只負けておくというだけであってはそれは残念な事であります。私共がより素晴らしいいうなら、いわば示現の違った世界とでも申しましょうかより高い価値のあるあり方に関心を持って行くと言う事です。より高い価値に関心を持つ人を私は文化人と言えると思うです。
その高い価値を求めないものを私は野蛮人だと言うふうに思います。より高い次元に向かっていつも関心を持っておるという生き方。だからそれと反対のあり方のものはいうならば野蛮人と言われても仕方がない。まあいうならば向こうがこう出てきたならこちらもこう出ろうと、いわば切らば突こうと言う言った様な考え方はより高い次元を求めておるとかより高い価値あることに関心を持っていない人ですからいかにも見掛けは文化人のようにしておっても、その心は私は野蛮人だと思う。
誰が負けるかと言った様な生き方。私共はいつも絶えずより価値ある生き方に関心を持っておかなければならない。絶えず信心をより高い次元に引き揚げていく精進をしておらなければならないかという事です。昨日午後から佐田さんがお参りになってからここで御届けをしておられましたが、今佐田さん所のお店の横か前かである、同じ同業の卸屋さんがで抜擢て、そして叩き売りを始めた。普通でいうならばこげん所来てから、何事するかと言うてもよかろうな所だそうです。
それにもうそのいうならば、今不景気ですからね、やっぱり金集めにでしょう。もうそれこそあの叩き売りを始めた。さすがの佐田さんも一日二日はやはりまあどうした奴じゃろうかと思いなさっただろうというわけです。所が色々考えよった所が沢山人が集まって来る訳ですね。その叩き売りをするためにこれは神様が○○商店は私の方の店の為に客寄せにこんなに沢山の人を集めなさるなあと思うたらその事が本当に神様の御深慮の深さに有り難いなあとこう思うたとこういう。
その有り難いなあと思うたその日から売上が多くなったのにおどろいたと奥さんに話されたと言う事を奥さんが昨日ここで御届けをしております。だから負けておるだけではいけないという事が分かりますね。もっというならば次元の高い世界というか、あり方が心に開けて来た時にですそして今まで、例えて申しますとですね、そのいわばにゅうしゅこんなんという仕入れが非常にこの頃は難しくなっておると言う言った様な品物があっちこっちから集まってくる。
それがいわば売り出しに相応しい、いうならば商品があっちこっちから集まってくる。本当におかげは和賀心次第だと言う事が分かると同時にこれにいわば涙を飲んでこらえておくとか、はがゆい事だけれでも、信心をしておるからじっとこらえておるのだと言った様なこらえ方ではそこにはなんの変化も起こらない。例えていうとね、例えば拝むというても真から拝まなければおかげにならんと言う事です。
打ち向かうものには負けてと言う事はね、まあこっちが負けておきゃよいというのではなくて、いわゆる神様を信じるならばです、それが必ずおかげになると確信の出来れるいうならば形の上においてはそれを黙ってみておるのですから、負けたような形になるのですけれども、だからそこに心が同じそれを辛抱しておるとか、こらえておると言う事の二日間なら二日間だけはやはり向こうのお客さんにどんどん取られると言った様ないわば感じでしょうけれどもです。
こちらの思い方が一段高い次元でね、これは反対に有難い事だったと分からせて頂く時にですこれだけ人が集まるならば家もああいう品物とかこういう品物と思うのが集まってくるおかげを、お繰り合わせを頂いてね、もう何時もよりも沢山な売上を示したという意味の事をお父さんが話されたと言う事であります。辛抱しておけばよいとか、だからそれが本当に辛抱させて頂くと言う事が有り難いと、おかげを確信しての辛抱でなからなければ私はただの辛抱、ただの負けたになってしまうと思うです。
昨日熊本の富永先生が月末の御礼に出てみえて話しておられましたが、例えばあのお家が大きなお百姓さんだそうですが、生り物なんかでも信心をさせて頂くようになって、まだ信者時代にです本気で大地を拝まなければならんと言う事を本気で拝みだしたら一反に一俵ずつは必ず増収したというのです。だから果物なんかは、今年になったら例えば柿なんかは、なったら明くる年は少なくなると言う様な事が毎年同じになるようになったというのです。ただいうならば形の真似だけで拝んだというのだけではなくて。
真から拝めれると言う事。大地が真から拝めれる。金光様の御信心をすればです、それこそ昨日のご理解ではないですけれども、野菜を抜く時に大地を拝むような心と、ただ形に本当に拝めれるようになる時にです、そしてこの体験だけはもう本当に自分のものになっておりますから、確信をもってお取次ができますというておられます。いわゆる富永先生がものになっておるわけです。なら負けるというてもですそうです。
ただ信心しておるから辛抱して、そしていつか時節に任せと言う事やらわね、神様にお任せすると言う事なんですけれども、そのお任せをしておる神様を信じて任せておらなければおかげにならんと言う事です。お任せしておりますというても心配し寄る様な事ではおかげにならんのです。時節にまかせると言う事は神様にお任せする。その神様は必ず勝たせて下さる事を確信しての任せるであります。神様の働きを信じる任せ方です。そこには不安もない腹たちもない、どうしたやつじゃろうかという事もない。
そして返って反対におかげたいというてお礼を言う心が出たその日から今度は今までにかつてないいわば売上、仕入れにくい品物があっちこっちから入ってくる。もう本当に今いくらあっても足らんと言った様な品物で倉庫がいっぱいになるというほどしのお繰り合わせを頂いたというております。だからね同じ有り難いでも芯にといういわばそこを一遍通り抜けた所から生まれてくる信じるでなからなければいけんです。同じ拝むというてもそうです。大地なら大地を芯から拝む。
柿の木なら柿の木を芯から、それこそあの毎年お神酒を振って拝まれたそうです。商売人がいうならば商品を拝むお客さんを拝む。ただ形で拝みよるというだけではいけん。昨日私ここの修行生の方達に今あなた方はその事に拝むと言う事にいうならばかかっておってよかような事じゃから、一つしっかり拝みなさい。久保山先生がおられる時分に、笑い話で話しておられましたが、親先生本当に拝む事は本当に難しい事ですばい。
自転車にパッと飛び乗ってからあらしもうた、また拝むとば忘れとったというてからだから今度はね、この次には必ず乗る時は拝むと言う事ばっかり思いよりなさいますけんで、また今度は降りてから、あらまた今度は降りる時にまた忘れておったと。もう本当にその自分のものになると言う事は難しい事だと、自転車に乗る前に必ず拝んで乗らせて頂きますという信心ができれば降りた時に必ず有り難うございましたとお礼が出来るのだ。だからもうその事を形の上で良いからしっかり拝みなさいと。
ただ形だけではいかん。芯からおがまなければいけない。そして例えばこれは商売人なら、なら本当に芯から拝んだと拝まん商品がそこに差が出来るくらいな本気ないわゆるはっきりした拝み方ができなければなりません。負けてと言う事でもただその泣き寝入り的な泣き泣きただ負けておるというな事だけではだめ。その負けておるその事がおかげになる事を確信してからでの負けるでなからなければいけません。そしてその事に、お礼が言えれると言う事であります。
私共がより価値ある生き方に感心をいつももっておかなければなりません。見かけは金光様の信者であってもです、本当におかげを現しきらないならそれは本当のことではない。それをいつもより高い、より価値ある生き方というものを感心をもっておらん証拠ですから例えば価値あることに感心を持つ人を文化人と言い、それと反対の価値を求めない、価値を求めない者を野蛮人というならばです。
私共の生き方がです本当に文化的な生き方を絶えず信心を高めていこうと感心をもっておるか否かと言う事をです、何かのたんびに一つ感じさせて頂かなければいけません。より高い次元にむかっての信心にいつも感心をもって置かなければなりません。そこに私はいかにも形の上においては負けておるかのように見えても心には確信をもっての負け方が出来る。しかもそれは、負けるが勝つにすぐつながるおかげの頂けれる負け方でなからなければいけない。
あちらから根性の悪い、いわゆる邪魔をされるその事が本当に残念で残念でたまらん、それでも信心しておるから辛抱しておくといったようなです、中途半端な信心では本当にいけない。ね。本気で大地を本気で本当に拝むならです、一反から稲作の一俵づつくらいは本当に多くなったというようなおかげの頂けれるような、拝み方でなからなければいけないと言う事です。今日「打ち向かうものには負けて時節に任せ」と言う事をただ、負けるというのではなくて、神様を信じて時節に任せると。
と言う事は神様を信じて任せると言う事です。そこにだから負けると言う様ないうならば、いわゆる残念な心というのはさらさらないわけです。いやむしろ考えよったらお礼を言わなければならない事たいと言う様な事に成って来るです。そこにはその日からいうならば思いもかけない、いうならば安売りをさせて頂く為の商品があっちこっちから集まってくると言う様なですお繰り合わせに繋がらないです。
私は今日は例えば拝むと言う事でも、形の上で拝むのではなくて本当にそれを拝みぬくという事。大地を拝みよりますと例えば言うてもです、拝む事によって収穫が増える位な拝み方を一つ研究するというか稽古をさせて頂くというか自分のいうならば、拝み方の頂き方のいうならすっきりしていない本当の拝み方ではない事を自分で気付かせて頂いて、おかげを頂いていかなければいけんと思います。
「打ち向かうものには負けて時節にまかせよ」、なにか金光様のご信心をしておりゃ人間が金光様の先生はおとなしい。だから言わにゃん事でも言い切らん。ただ堪えておけばよかと、いつか神様がどうかして下さるじゃろう、そういうことではつまらんというのです。その事自体が有り難く頂けれるような負け方でなからなければいかん。そこには負ければ勝ちのおかげがすぐ頂かれる。それを佐田さんの例のお届けの事から、打ち向かうものには負けてと言う事はこう言う事だと言う事を聞いて頂きましたですよね。
どうぞ。